昭和初期までは、芦屋町は船による筑豊の石炭輸送(川ひらた)が、主の産業であったため、筑豊鉄道会社が主力を船から鉄道に移行されてからは蘆屋町は衰退していった。
其の為、大正4年(1915)芦屋鉄道はやっとの思いで敷設にこぎつけた鉄道であったが、時すでに遅しで、石炭輸送は筑豊鉄道の若松が主力の積み出し基地となり、営業不振のため、昭和6年の廃止となり僅か17年という短い営業であった。
昭和22年進駐軍の芦屋基地駐留に伴い物資輸送のため芦屋線が新たに敷設された。この路線の多くは16年前の軽便鉄道の路線跡を使った。昭和25年国鉄に譲り、旅客用としても営業を始めたが昭和36年駐留が終わると廃線となった。
芦屋軽便鉄道路線及び国鉄芦屋線とダブる路線(赤線)と国鉄芦屋線(緑線)そして、鹿児島本線(青線)の路線図。
(写真にカーソルを置いてください)
追加:2014年5月20日
このほど大変珍しいハガキを見つけましたのでお知らせします。
大正11年6月8日付の芦屋軽便鉄道のダイレクトメールです。
文には景勝地で春夏は潮干狩り海水浴、家族そろって一日中遊べます」とか、お知り合いの方お誘い合せの上お出かけくださいとか、人数がまとまればお安くしますなど書いてあるようです。遠賀川駅から乗り換えて25分で着きますと書いてあります
裏面は洞山の写真が配されています。
日付は大正11年6月8日
なぜ大正かというと一銭5厘の切手は明治の終わりから昭和の初めまで、そして軽便鉄道が営業していたのは大正4年から昭和6年までですのでこの日付は大正だと確信しました。
なんとこの時期にもダイレクトメールがあったとは珍しい一枚でした。
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【主な沿革】
軽便鉄道
芦屋鉄道株式会社
1911.11.27(M44)
芦屋軌道鉄道株式会社として設立
1915.04.13(T04)
芦屋鉄道株式会社と改め、西芦屋〜遠賀川間開業
1915.09(T04)
遠賀川駅跨線橋完成
1932.04.25(S07)
西芦屋〜遠賀川間全線廃止
【芦屋鉄道廃止路線データ】
※大正14年当時停車場 全9往復三等車のみ・片道30銭・営業キロ数6.06km
西芦屋 → 東芦屋 → 濱口 → (島津) →鬼津→ (大正12年頃若松と云う駅が出来ている)→ 松ノ元 → 遠賀川停車場
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日本国有鉄道芦屋線
1947.03.02(S22)
運輸省(国鉄)芦屋線
筑前芦屋〜遠賀川間
米軍基地用路線として開業
1950.02.10(S25)
旅客路線として再開業
停車駅は筑前芦屋駅と遠賀川駅の二駅のみであった。
学生たちの通学列車で朝夕だけは賑わった。
1961.06.01(S36)
米軍基地廃止により国鉄線・芦屋線廃止
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芦屋軽便鉄道に関する面白い記事を見つけましたので掲載します。
芦屋町郷土史研究会誌 「崗」より
芦屋町大正史抽記
野 間 栄
1 「九軌」の点灯
芦屋町にはじめて電灯がついたのは『芦屋町誌』の年表によると明治四十一年(一九〇八)で、九州電気軌道・の芦屋出張所が設置されたのは大正二年(一九一三)となっている。九州電気軌道?(「九軌」明治四十一年創立)によって最初に電車が開通したのは門司市の東本町から八幡市の大蔵間で明治四十四年の六月である。当時の電鉄会社各社とも電灯事業を兼営し、九軌も電車を走らせる前に既設の「大阪電灯」、「小倉電灯」、「八幡電灯」を買収して、黒崎、折尾、戸畑の無灯地区に手をのばしたというから、芦屋地区の電灯は「九軌」が手をつける以前にいずれかの電灯会社によってすでに事業が勧められていたのではないかと思われるし、「九軌」よりも十年早く明治三十一年には「若松電灯」が発足しており、『町誌』の点灯時期もうなづけぬことはないが、本町出身の刀根為次郎著『芦屋の浜』によると、「九軌」によって送電が開始されたのは大正二年(一九二三)で施設灯数は五〇〇灯ということになっている。
ところで、本稿のために大正期の書類を詮索していると、九軌発行の電灯料領収証が二枚出てきた。ともに伯父野間六右ヱ門宛のもので、一枚は大正二年六月分で点灯料は5燭光一灯で六〇銭。一枚は大正三年一月分で五十五銭である。「料金ノ義ハ全テ前金ノ事二相成居候」とあるが、その月末と翌月末の日付になっていて、支払いを待ってもらったが、それほど厳格な集金はしなかったのか分らないが、この領収月日からすると、大正二年十一月一斉点灯というのは正しくないわけである。
遠賀川改修工事によって山鹿雁木区に居住していた野間一家も立ち退かねばならないことになって、芦屋中小路区の上町に移転し、同居していた伯父一家は表通りの家に、私の父母はすぐ裏の家に住むことになった。明治四十二年(一九〇九)のことである。伯父のうちは広い「通りにわ」があって部屋は二間あったが、5燭光一灯をつけた。燭光の段階は最低が5燭、その上が6、10、16、20、25、32、50燭となっていた。5燭一灯でもそれまでのランプよりはマシであったのであろう。私のうちはランプで通し、母がほやの掃除をやっていた。家屋を購入しての移転で家業である川舟による石炭運搬業も一頃のような景気はなく、父は紫川(小倉市)の上流の砂利積みに出かけたりしたが、大正三年には川舟に見切りをつけ、おかにあがって小さな諸式店を開いた。
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九軌の芦屋出張所は中小路の吉田材木店の前で、間口一ばいにみかげ石の三段位の石段があって頑丈な建物であった。線の切れた電球の取替えによくいったものである。
2 芦屋鉄道の盛衰
『芦屋町誌』の経済年表には、大正五年(一九一六)「芦屋鉄道敷設」とあるが、大正四年四月十三日に開通し初営業している。桧皮葺きの駅舎と車庫のある西声屋駅が基点であったが、次の束芦屋駅は会社の事務所が同居していて、かわら葺きで白壁塗りの本建築であった。『町誌』には鬼津を島津として全線で七駅あるように記されているが、島津という停留所は開業早々にはあったけれど、乗客が少ないのと停留所からすぐに若松の峠に列車が差しかかるので、運転上難がありすぐに廃された。だから駅は六駅で、浜口、鬼津、松ノ本は無人の停留所であった。
終点の遠賀川駅までの距離は『町誌』では三里六一鎖(チェーン)となっているが、三哩(マイル)の誤で、キロメートルになおすと、六・〇五キロメートルである。ついでに誤植を指摘すると専務取締役戎場敏郎とあるのは戎湯が正しい。
明治四十五年四月から大正元年九月までの第二期決算報告書には当初の社名芦屋軌道株式会社は芦屋鉄道?と変更されて、事業報告、決算報告、損益表、.役員名、株主名が記載されいる。
役員名と株数 (大正元年九月三十日現在)
株 数 役 名
一五〇 久 野 三 (代表取締役)
一〇〇 安 川 酒三郎(取 締 役)
一〇〇 桑 原 侍次郎( 〃 )
一〇〇 吉 田 徳 蔵( 〃 )
七〇 田 中 新 ( 〃 )
三五 塩田 久右衛門( 〃 )
二五 塩 田 久次郎( 〃 )
七〇 小 閻 伊 平(監 査 役)
二〇 大 音 加一郎( 〃 )
二〇 梶 山 彦次郎( 〃 )
出資者総数は一三八名で、株数一、三〇〇株(一株五〇円)資本金六万五、〇〇〇円で、開業へ向って滑り出したのである。株主の内一株出資者が七十七名、この中に伯父野間六右ェ門も名を連ねている。伯父は日露戦争で満州の戦闘で頭部へ被弾、少しばかりの恩給をうけての生活であったのに、これは全く意外であった。
「芦鉄」の最初の機関車は五噸車といわれる二台であった。やがて中古であったが、ローソク形の煙突の長い3号車が購入され、大正十二年頃にはこれまでのよりはどっしりとした逞しい4号車が走るようになって、七、八月の海水浴時期にはありたけの数台の客車の前後に、これらの機関車が動員された。
開通から十年経過した大正十四年の暮近く、寒気が加わる季節になると乗客は減るばかり。そこで久しく廃止していた石炭ストーブを待合室に持ち出したが、客車はガタガタだし乗客は乗り心地がよく運賃は同じで、いつでも満員になると発車する乗り合い自動車を利用するようになった。「芦鉄」でもバスならぬ普通車型の乗り合い自動車を三台折尾まで走らせていたが、他に出現した業者との競争があり、予定通りの収入を上げることができず、徹底的な合理化による改革が断行された。
月給八十円の機関車主任と、保線係主任がともに解雇されるし、専務取締役も交替した。そして従業員家族の無賃乗車は月一回限りということになった。私の店では精米用の動力を利用して機関車の給水を請負っていたが(一ケ月十三円)給水関係の用事以外は乗車まかりならぬということになった。
「芦屋鉄道は営業不振で、昭和初頭にはほとんど運転を休止していた」と「町誌」にはあるが、とにかく喘ぎながらも昭和五年までは運転を休止することはなかった。